35年お訪ねしてるお家。玄関脇に前輪二つの自転車が今は乗らずに置いてある。 よい色合いに古びて来ている。その自転車の買い物カゴに乗るのが大好きだった お子さんが老親のお世話に来られる。
冬に向かう晩秋の芦屋川沿いー空が高くて、浜側に芦屋税務署があるーあそこで、 資産税の交渉に何度も通った。 いわゆる、雪隠詰めにあって、暗い空を感じたときも、なんとか交渉妥結で蒼天 を見上げたこともある。
鎌倉殿の13人は、三谷幸喜らしい裏読みの連続で面白い。その源氏の発祥地の神 社。武家の神社の屋根は、反り返っている。 蒙古襲来を防いでも恩賞は出せない。滅びが待っていた。 小田原評定の北条は後北条氏。鎌倉時代の北条ではない。 謎の多い北条早雲を取り上げてほしいな。
湊川公園に戦前に神格化された大楠公像。各県一紙の国策新聞社と化した神戸 新聞社の寄附募集でできた。 敗戦後の弁明で、南朝正統説で、神国日本を推進してきた東京大学史学科の平泉 先生は、南朝(吉野朝)は負けていないと弁明したらしい。 逆賊と英雄神格化の変転はこれ如何に。 歴史は、同じような題材で、同じような動機が重なれば、同じ繰り返しが起こり うるのだ。
雑な絵ですが、若いお母さんが赤ちゃんを前抱きして、桜を見上げさせる。 それをぜひ描きたかった。それだけです。実はこの川の水ははあまり綺麗ではな い。 しかし、大きなボラや鯉が泳いでいる。もう少しで海へ出る。
吉井川下流は川幅が広い。 渋野さんが練習していたゴルフ練習場が土手の向こうにある。ここは人はほとん どいなくて気持ちがよい。 中学校の校歌に、「秋、熊山(ゆうざん)に雲を追う」というフレーズがあった。
生きていれば97歳。戦争に向かう5年間 大正13年2月生まれの父は閑谷と
いう名のごとく山道の奥の旧制中学に12歳からGoogleマップで測ると16.3キロ
を自転車で通った。
町内で近隣で閑谷に行った盛業の歯医者さんに行くといつも「お父さんは小さか
った」って言う。父は「そりゃあいつは勘違いしとる」と言っていた。
いや雨の日も風の日もあったろうから 1年生の頃は小さかったんじゃなかろう
か。
生涯、一番うまいと思った食はなんだと尋ねたら、12歳で閑谷学校の食堂で食べ
させてもらった「アジのフライ」。こんなにうまいものがあるのか。
国宝の講堂の黒光りもいいが、孔子廟の山を覆うばかりの紅と黄のコントラスト
に圧倒される。その後、岡山の師範学校に行って、苦悩の末に病で兵隊に行くは
ずが行けなかった。その時代を生きた人のトラウマの一つだろう。
ともあれ、戦後、教員から農民宗教家に転じた父のおかげで私は活かされている。
続 楷 木偏の楷 ウルシ科 櫂にあらず
最初のアップで私は楷と書かず船を漕ぐ櫂と書いた。楷書の楷はなかなかワー
ドで出てこない。そのうえ、紅い方は紅葉と書いた。
紅葉とは落葉広葉樹の総称なのだ。間違いだらけだった。この楷書の楷は、楷か
ら来たのだ。枝振りがカク・カク。中国山東省の孔子の墓所・孔林のある曲阜か
ら、朱子学を庶民の藩校として開学した閑谷にちなみ、大正4年に日本にはない
ウルシ科のこの樹の種を植えたものが今、樹齢100年を超えてきたということだ
った。
これは二つとも雌なんだそうだ。大きくなってみないと雄か雌かわからんらしい。
雄が近くにいると実がつきすぎて樹齢が短くなるらしい。確かに私も偉そうにし
てきたからな。閑谷の楷は、周りに雄の樹がなかったんだな。気高き雌の大樹に
これからも育ち続けるだろう。
ごめんなさい。
で、謝った後に一言あるのが私流。大正4年(1915年)科挙の伝統を受け継ぎ孔子
にならい庶民の俊英を発掘せんとしたこの学校で育った樹は、その後、一路、日
中戦争に踏み込んだ日本をどう眺めてきたのか。ああきれいだな、見事だなで終
わらせないでもらいたい。
思い立ったら、ここに歩きに行く。亡くなるまで白髪がふさふさだった、父と 私は顔が似ているから、髪もそうなると思い込んでいた。 駅のエレベーターに乗った際、うえから映像が映し出されて、あの髪の薄い老人 は誰だと思ったら、私だった。 税理士として、つたない知識をひねり出すべく頭をよくかきむしっていたからな あ。激しさも持っていたと思うが、瞬間湯沸かし器の私とは違う。 てっぺんが薄くなった頭に、クスノキの霊気が照射されると「ああそうだ、こう 考えよう、あれは私が悪かったな」って思い浮かぶことがある。